Chocolat & Akito、Great 3 などでの音楽活動の他にも、近年は新進プロデューサーとして"Sister Jet"や"フジファブリック"など、数多くのミュージシャンを手がけている。
お仕事の依頼など、メッセージは akito@great3.com まで。
http://www.great3.com/akito/
http://www.myspace.com/chocolatakito
「銀河」を最後にフジファブリックのプロデューサーから離れたことが、寂しくなかったといえば嘘になる。
プロデューサーとして右も左も分からなかった自分は、メンバーの1人になったつもりで全身全霊を傾けるしか
やりかたを知らなかった。
自分にとって初の全面プロデュース、しかもほぼ1年間に渡る密接な作業を共にし、様々な想いもある。
個人的にはもっと出来ることがあると思っていたし、やりたいことのアイディアも山のようにあった。
心のどこかで、何年でも、何枚でも一緒に音楽を創ってみたいと思っていたのは確かだ。
でも予感はなんとなくしていた。志村くんは僕の元から離れ、次のステージへ進もうとしていた。
彼の頭の中には表現したい音楽が詰まっていた。それを様々な才能ある人と試してみたいと思うのは当然のことだ。
そしてもちろん、彼らにはセルフ・プロデュースができる才能だってあるし、それがいつでも出来るようにと、
僕は色々な知識や、持てるすべてを彼らに手渡してきたんじゃないか。
音楽はミュージシャンのものであって、決してプロデューサーのものではない。
僕らは人生の一瞬で交差したんだ。そのことだけでも感謝すべきことだった。
そういえば、ディレクターの今村くんから、志村くんがコーネリアスの小山田くんにプロデュースを頼みたがって
いるんだけどと相談の電話をもらったこともあった。
志村くんと小山田くんのマッチングがどう転ぶのか、僕にはまったく想像できなかったが、どちらも紛うことなき天才だ。
小山田くんとは旧知の仲だし、ショコラの所属事務所は小山田くんの事務所でもあった。
僕は喜んで紹介させてもらったが、当時小山田くんは「SENSUOUS」のレコーディング中でもあったし、
残念ながらこの話は叶わなかった。もしも実現していたら、どんな音になっていたのだろうか!
きっと当時の志村くんは打ち込み(パソコンのDTMを使用した音楽制作)で創る音楽に相当興味があったんだと思う。
自分でも、そのノウハウを学びたいと強く思っていたはずだ。
デビュー直前に揃ったメンバーで理想のバンドサウンドを構築することに苦労した1年間を経て、すべてを
自分1人の力で表現したデモが創れなければ、メンバーに頭の中で鳴っている音を永遠に理解してもらえないと
思っていたのかもしれない。
セカンドアルバム「FABFOX」の数曲で、当時スーパーカーのプロデュースなどで注目を浴びていた益子樹さんに
ミキシングを依頼したのも、そういったことを学びたい志村くんの意向があったのではないかと思う。
その点、僕は打ち込みのエキスパートとはとても言えなかったし、おまけにその頃は、むしろ時代と逆行するかの
ように、コンピューターを一切使わない、テープでの録音に興味を持っていた時代だった。
僕はすべての執着を手放し、フジファブリックのことを忘れ、また自分の道を歩いて行くことを決心した。
2005年の2月、Great 3のマネージャーを長年務めてくれた篠原という男が、突然この世を去った。
僕らメンバー3人は棺の前で号泣した。
そのことと直接の関係は無いが、この日を最後にGreat 3の活動は、今日までストップしたままとなっている。
僕は妻のショコラとChocolat & Akitoというユニットを結成し、初心に立ち返り、自分の音楽を続けた。
そこではアナログテープによるレコーディングの可能性と、フジファブリックとのレコーディングに触発された
ハーモニーの面白さを思いっきり追求した。
ミックスはシカゴに住む旧友、Tortoiseのジョン・マッケンタイアのスタジオまで持ち込んで、古い70年代の
Tridentの卓でミキシングしてもらった。
僕はいつのまにか自分のアルバムでも客観的なプロデュース目線で、様々な判断が下せるようになっていた。
Great 3 時代には到底出来なかったことだ。
シカゴでは再びジョン・マッケンタイアと長い時間を共に過ごすことで、プロデュースに必要な更なる知識も大量に
仕入れることもできた。そして徹底したアナログレコーディングを追求したことで、その質感も体に叩き込まれた。
その後はデジタル・レコーディングでも、アナログの好みの質感を巧く表現できるようになり、ようやく現在では
臨機応変にデジタルからアナログまで、どんなスタイルでも思うがままにレコーディングできるようになれたと思う。
自分の「今」に集中していたおかげで、僕はフジファブリックのことを考えないようになっていた。
その頃、自宅に彼らのニュー・シングル「虹」が届いた。このメンバーで初のセルフ・プロデュース作だ。
さっそく聴いてみてなるほど!と思った。新しいフジファブリックのメロディーとサウンドが確かにそこにあった。
僕がその場にいたら、この曲は良くも悪くも、また違ったものになってしまったことだろう。
ここには彼ら5人だけでしか創れなかった音がある。
僕は「虹」が好きだったこと、そしてずっとフジファブリックのファンでいるから頑張れよ!
と志村くんにメールを打ち、自分の世界へと戻っていった。
そんなある日、ディレクターの今村くんから久しぶりに電話がかかってきた。
「こんどフジファブリックでジョン・レノンの曲のトリビュートをすることになったんです。
その曲を志村が片寄さんにプロデュースしてもらいたいって言ってるんですが、スケジュールは空いてますか?」
「もちろん喜んでやらせてもらうよ!」僕は即答した。
楽曲は「LOVE」と決まっていた。僕は大まかなアレンジのアイディアを持って、メンバーの待つリハーサル用の
スタジオを訪ねた。
実はフジファブリックとカヴァー曲をやるのは2度目だった。1度目は1stのレコーディング中に、FM番組の企画で
ゴダイゴの「モンキーマジック」を共演したのだ。(この音源も先日発売された「FAB BOX」に収録されている)
その時は番組用の音源ということで予算にも時間にも制限があり、1日で演奏から歌、ミキシングまですべて行ったため、
充分なアレンジを施す余裕もなく、ほぼ完コピとも呼べるヴァージョンで挑んだものだった。
ジョン・レノンのオリジナルでは、ピアノとアコギによる弾き語りで演奏されていた「LOVE」だったが、
僕はフジファブリック・ヴァージョンのアレンジの中心に、ドラムのフロアタムを使ったビートを置いた。
奇しくもこの曲は、メジャー初期フジファブリックのドラマー足立くんが、フジファブリックと演奏をした
最後の曲となった。
そのことを僕はまだ知らなかったが、おそらくすでにその時、足立くんの脱退は決まっていたんだと思う。
しかし久しぶりに会ったメンバーの様子は1年前と何ら変わりがなかった。何事もなかったかのように懐かしの
顔ぶれが揃った。
僕から見るに、志村くんは結果的に全編セルフプロデュースとなったセカンド「FAB FOX」に精魂を使い果たして
いたようだった。
おそらく彼にはトリビュートアルバムの曲までプロデュースする余力が残されていなかったため、僕を呼んだのだろう。
理由なんてどうでも良い。やはり彼らとのレコーディングは楽しかった。
「LOVE」のエンジニアにはメンバーと同世代で当時弱冠25歳だった若手エンジニア、浦本雅史くんを呼んだ。
彼の名前は「陽炎」MIXの時、高山くんに「誰か若いアシスタント・エンジニアとかで才能ありそうな子っていない
かな?」と聞いた時に名前が挙がって、その後紹介されて以来、一度一緒に仕事をしてみたいと思っていた若者だった。
その情報を、僕は志村くんにも伝えていたこともあり、浦本くんは「FAB FOX」レコーディングにも参加していた。
当時の浦本くんは今どきの若者にも関わらず、くるりのレコーディングで高山くんのアシスタントに付き、昔ながらの
アナログレコーディングを深く経験していたこともあって、かなりのアナログ録音マニアでテープ信奉者だったから、
その頃の僕の傾向との相性もピッタリだった。
アルバム「フジファブリック」でもドラムとベースはすべてアナログテープに録ったものをコンピューターに流し込むこと
によって音の太さを得ていたが、僕らは「LOVE」では、さらにすべての楽器をアナログテープに録音することに決めた。
これはもし演奏を間違えても、コンピューターと違って後から細かい修正が出来ないということを意味している。
しかし、久しぶりに聴くフジファブリックの演奏はさらに大きく進化していた。
特に総くんの壮大で渦巻くようなギターは圧巻の出来だった。結果的には、アルバム「フジファブリック」での
徹夜に次ぐ徹夜レコーディングが嘘のように、たったの数時間で素晴らしいテイクが録れてしまったのだ。
浦本くんの、ほのかにサイケデリックな香り漂う、映像的でイマジネイティブなミックスも成功していると思う。
この時の彼の仕事が気に入った僕は、現在に至るまで、浦本くんには自分のプロデュース・ワークの右腕として
何度も参加してもらっている。彼は僕と共に勉強し、精進を重ねてきた同士の1人だ。
僕との仕事以外でも成長著しい彼は、最近ではサカナクションと素晴らしい音を創っているのも頼もしい。
志村くんもこのレコーディングでは「FAB FOX」のプレッシャーから解放されて、ずいぶんとリラックスしていた。
レコーディング後には、珍しく彼から感謝の想いをしたためた長いメールをもらって照れくさかったことを憶えている。
「LOVE」はエピローグに相応しく、何のストレスもなく、みんなが笑顔でお互いの成長を確認できたレコーディング
だった。そして結局これが僕と志村くんとの最後のレコーディングとなってしまった。
おかしなことに、志村くんは僕がプロデューサーを離れて以来、プライベートで頻繁に電話をかけてきたり、
僕の自宅にも遊びに来たりするようになった。こんなことはプロデュースをしていた頃には、一度もなかったことだ。
足立くんも脱退後に家に遊びに来たことがあったが、彼もまた脱退後のほうがむしろ志村くんと友人と呼べる
間柄になれたと話していた。
深夜に電話がなると十中八九で志村くんからだった。
そして僕の家に遊びに来たいと言うときは、たいてい何か悩み事があるときだった。
志村くんとの待ち合わせは、いつも駅前の空き地だった。僕が迎えに行くといつも彼は大きなリュックを背負って、
ガードレールに腰掛けて待っていた。
駅前のとんこつラーメンが気になるみたいで「美味しそうっすね~」というのがお決まりだった。
僕は「肉食べないから、ラーメン屋にも行かないんで知らないよ」と毎回答えていた。
僕はレコードが好きで、自宅には数千枚のレコードが収められた棚がある。志村くんは初めて家に来たときに
「思ってたよりレコード少ないっすね。富士吉田の知り合いにもっとたくさん持ってる人がいて、その人にブラジル音楽
とか色々教わったんです。片寄さんとその人を会わせたいですね」なんて話していた。
家に来たら来たで、特別何をするわけでもなく、たいていは僕が彼に聴かせたいと思っている音楽やDVDを
ただ2人でずっと聴いたり、見たりしているだけだった。
遊びに来てもテンションが低いときもあり、そんな時は「こいつ楽しくないのかな?」なんて思ったりしたが、
帰った後に携帯に届いたメールを見ると「最高に楽しかったです!!またすぐ遊びに行きます!!」といつも
「!!」だらけのメールを送ってきたりするから、僕は彼の反応はいっさい気にしないことにしていた。
「TEENAGER」が完成した直後、僕に聴いて欲しいといってマスタリングしたばかりのCDを持ってきたこともあった。
2人でソファーに並んで座り、1曲ごとに短い感想をはさみながら、丁寧に全曲を聴かせてもらった。
忘れられないのは「若者のすべて」が流れてきた時のこと。思わず鳥肌が立った。「志村くん、やったな」と思った。
「これは名曲だよ」僕はちょっと目頭が熱くなっているのを隠し、志村くんに「ほら見ろよ。鳥肌」と言って、
彼に腕を見せた。志村くんは「ありがとうございます」と嬉しそうに微笑んでいた。
きっと彼は「無償の愛」を求めていたんじゃないかと思う。
僕のところにも、いつも褒めてもらいたくて遊びに来てたんじゃないかという気がしていた。
そして僕らにはもう何の利害関係もなかった。
だから僕はことあるごとに、自分がどれだけ彼の才能を買っているか、良いことだけを何度でも話し続けたものだった。
表現を生業にしているかぎり、周りの人から色んなことを言われるのは覚悟しなければいけない。
問題を指摘するのは簡単だから、誰もが言いたいことを言う。
自分もまったく同じだから本当によく分かるのだが、志村くんは自分の才能にもの凄く自信がある反面、
それ以上にまったく自信が無かった。
彼はあんなにも才能があるのに、いつも不安と戦っていた。
ちょっとでも曲が出来ないと、すぐにレーベルや事務所から契約を切られるんじゃないかと心配していた。
あれだけCDを売り、ライブの動員も伸び続けていたのだから、そんな心配は杞憂以外の何ものでもなかったのに。
僕には自分で自分を追い込んでいるようにも見えた。そんな時、僕にしてあげられることなんて何もなかった。
「心配するなよ。天才なんだからさ!」と励まし、曲創りの刺激になりそうな音楽をたくさん聴かせてあげること、
そして家で、美味しく栄養のある食事を、たくさん食べさせてあげることぐらいしか出来なかった。
彼からは仕事のことに限らず、たくさんの悩みを打ち明けられ、色んな相談をされた。
あまりにつらそうな姿を、どうにも見ていられないときもあった。
そんな時はいつも「もう一度プロデュースさせてよ」という言葉が喉まで出かかった。
経験を積んだ今なら、あの頃よりもっと君の思うような音を創ってあげられる。
そんなに自分1人で何もかも背負わずに、僕にも少し分けてくれよ。
そう心の中で思っていたが、僕がそれを言葉にすることは無かった。
帰り道は、いつも志村くんを駅まで見送った。家から駅までは東京都心にしてはずいぶんのどかで、
街灯の下をこうもりが舞い、時折3両編成の小さな電車が横を通り過ぎて行くだけの道だった。
志村くんは「この辺りの雰囲気いいですね。なんかちょっと地元を思い出す感じです」と言って笑った。
「CHRONICLE」レコーディングの前、最後に彼が家に遊びに来た日の帰り、僕らは月明かりの下、
いつものように黙って線路脇の道を駅まで歩いた。
「またいつか一緒に何かやろうぜ」
僕は何も考えることなくフッと口にしてしまった。
「そうっすね」
と志村くんは小さくつぶやいた。
僕はその言葉のニュアンスから、もしその日がいつか来るとしても、まだまだずいぶん先であることが分かったが、
まさかその夢を永遠に奪われてしまうことになるとは、露程も考えていなかった。
つづく